ちょぴん先生の数学部屋

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東日本大震災から10年経って・・・

こんにちは。今回は数学とは全く無関係な記事となります。

 

今日2021年3月11日は、東日本大震災が発生して10年になります。私自身も、茨城県水戸市にて被災しました。あの日のことをこれからも忘れないように、体験談を記事として残しておこうと思いました。

 

ついにあの日から10年が経ったんですね。改めて、犠牲になった方々のご冥福をお祈りいたします。
10年経ったと言っても、あの日のことはつい昨日のことのように鮮明に思い出すことができます。
当時私は大学3年生の春休みで、水戸に帰省していました。来る大学院入試に向けてTOEFLのwritingの練習をしていたと思います。
その最中にいつもと違う縦揺れを感じ、直後強い横揺れに襲われました。普段鈍感な私でも「さすがにやばい」と思わせる強烈な揺れで、とっさに机の下に身を隠しました。
揺れが収まった直後、いつでも避難できるように窓という窓を全部開け、幸い水道がまだ生きていたので、バスタブに水を貯めました。我ながら、よく冷静に対処できたなと。。家の被害は伝統が落ちてくる、本が崩れる、食器が割れる程度の被害で済みました。外に出てみると、ブロック塀にひびが入った家がちらほら、いろんな人が外に飛び出していました。
当時父は仕事に、弟は学校に、母は美容院に出かけていたため家には私一人しかいなくて安否が分からない状態。溜まらなく不安になりケータイをかけるも案の定混雑していて繋がらず、友人への電話メールも同様でした。。
数時間すると、母が髪がびしょぬれになった状態で帰ってきました。何も、美容院でちょうど髪を洗っていたときに地震に見舞われたらしく乾かす間もなく着の身着のままに歩いて帰ってきたそうです。とりあえず無事だと分かり一安心。
その時はすでに停電していたので、久々に石油ストーブを取り出しカセットコンロで冷蔵庫の残り物を温めて食事をとりました。「とんでもないことになったな、、まさか本当に自分たちが被災者になるとは、、」とこの時改めて実感。テレビもつかない状況でしたので、「きっと今頃「茨城地震」とか報道されててんやわんやしているんだろうな」と思っていました。そうだったらどれだけよかったか・・・
夜中の3時になって、父が帰ってきました。地震で電車が止まり帰宅困難者になったため、なんとヒッチハイクをして帰ってきたんだとか。まさかヒッチハイクが現実世界に存在するなんて思いたくなかったですよ。。それくらいの異常事態。
たまたま自宅が県庁のすぐ近くにあったおかげなのかもしれないですが、幸い翌日には電気が復旧しました。そしてテレビをつけてみると・・・そこには、津波に襲われて地獄絵図となった、東北地方の光景が。。「ここなんて震度6弱の大地震だったけど全然かわいいほうだったんだ。」この地震の余りのスケールのでかさを痛感し、身の毛がよだつ思いでした。
すぐさま東北出身の大学の同期と連絡を取り無事を確認して、とりあえず安心しました。あんな大津波に巻き込まれたらまず助からない。身近な人に犠牲者が出でもしたら立ち直れなくなりますよ。。
地震発生から丸一日たって、学校の体育館で一夜を過ごした弟がようやく帰ってきました。これで、家族全員の無事が確認できました。本当に良かったです。
その後も水道は止まったままで、スーパーやコンビニの電気も全て止まってしまい、車も母が美容院に行ったままの状態で置いていかれていたため、家族総出で自転車をこいで食料の買い出しに出かけるという不便な生活が続きました。そして、度々襲ってくる強い余震も怖かったですね。
テレビを付ければ震災の地獄絵図と予断を許さぬ福島原発の状況報告ばかり、CMになると「こだまでしょうか、いいえ誰でも」、「ぽぽぽぽーん」のAC絨毯爆撃。ぽぽぽぽーんを聞くと今でもあの日の光景がフラッシュバックします。録画したゴーカイジャーまどマギを繰り返し見る時間ができたのが、せめてもの救いでした。
 
その後一か月遅れで東京に戻り、大学4年生がスタートし今に至ります。
 
 
私の体験談は以上となります。
2021/3/11